2月11
フロイト床屋 blog版:末は博士でプーかもねより。
博士と真打論白熱(笑)
どこで比較するかで同じともいえるし違うともいえる微妙な関係性ですな。
「落語家は、浮世のあらで、飯を食い。」って川柳があるけど、落語家=研究者でも成り立つということは「真打ち」=「博士」か?
たしかに、全く実力がなければ、博士論文を書かせないだろう、というお言葉ですね。
それもあるが、成るための基準が違う。のかな?
落語協会大量真打は内容を問われない。博士号には論文がある。
どちらも成るまでに師匠をしくじったらおしまいというのは共通点(笑)
しかし、パイプラインの漏れっていうのは面白いね(失礼)
これって何が原因なんだろう?
大学の就職予備校としての役割が機能しなくなったって事かな?
結局人間に能力があるかないかって言うのは数値化できなくて、○○大学を出たということを一種のフィルターにして人材確保時のリスクを軽減するというのが会社の人事担当の考え方だったわけじゃない?
そこには大学教育によって得られた知識や専門的能力なんて求められていなくて、○○大学に入学してちゃんと卒業できるという人間としての能力値しか期待されていなかったと。現役マスター取得者なら年齢と能力期待値とのバランスがぎりぎりOKだったから就職が有利だったわけで、博士まで行っちゃうと研究分野か本人の能力によほどの特異性がないと企業は取ってくれないわけだ。(どっちも理系に限るか?)
研究分野にも依るが工学博士や理学博士、経済学なんかは、直接お金を生み出す可能性が高いので一般就職もできなくはないが、その他の分野の博士号所得者を増やすことの意味を考えずに実行した失策なんだろうね。
そもそも、なぜ大学で得られた知識や能力が企業から期待されなくなったのか?
現状はどうか知らないが、コンピュータ業界では下手な大学卒よりも専門学校卒のほうが即戦力として認められていた。おかしくないか?
日本のマスターよりもMBA取得者が優遇されたのはなぜだ?
そんな状態だったのにもかかわらず、90年代初頭から徐々に大学教育の内容が簡易化されていった記憶がある。なぜ?
日本の会社では博士号の価値が認められないってことなんだよね、結局は。
資本主義の枠にとらわれない分野の研究者をどれだけ飼って(失礼)おけるかというところが文明の進歩へつながるんだと思うんだけど、当然社会における許容量というのがあるわけで。その選別機能をを大学が担っていたが、大学がそれを放棄した結果、個人の能力によって選別される形に変わったということなんだろうね。研究者として世俗から離れて生活する為には能力が要るわけで…
落語界では、微妙な真打でも飯を食えてるんだよね。まだ飽和していないわけだ。
ということはこのまま落語家の大量真打が増えると、中年のフリーター真打が社会に蔓延するのか!?
だからどうしたと言われても困る。
居酒屋談義に結論は無い(笑)
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